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六十五歳を機に、自身が興したシステム会社の社長の座を譲り、一度は隠居を考えた下條朝則さん。彼がもう一度、新しい事業に取り組んでみようと考えたきっかけは、ある特殊な“農法”との出会いだった。

「二十年経って東京から帰ってきたら、壱岐はとにかく人がいないでしょう。このままじゃ若い人がどんどん減って産業も衰退してしまう、なにかできることはないか、と考えて。
第二次産業、第三次産業を新しく始めるには人手が足りない。ここは私ひとりでも始められる第一次産業、それも、壱岐の温暖な気候を活かした農業がいいと思いました。多少コストがかかってもいいから、生産性の高い農業はないかと探していたら、インターネットでアイメック農法というのに出会ったんです」

アイメック農法とは、人工透析や人工血管といった医療用製品に用いられる薄いフィルム(ハイドロゲル膜)の上で植物を育てる農法だ。植物はこのフィルムのなかの吸いづらい水を吸収しようとする過程で、アミノ酸や糖分を多く作りだす。
その結果、アイメック農法で育てられた植物は、自然と栄養価が高く糖度の高いものになる。フィルムの下に敷かれた止水シートにより、植物が地面と完全に遮断された状態になるため、汚染された大地やコンクリート、砂漠など、どんな場所でも有効な農法とされている。

「調べてみたら、いいことばかり書いてあるでしょう(笑)。本当にできるのかと思って、実際にアイメックでトマトを育てている島根県の出雲の農家にアポをとって、見学させてもらいに行ったんです。3回ほど足を運んで、どうやらこれはうちでもできそうだ、やるしかないと思いました」

 
 
下條さんは、二〇一三年に『壱岐の潮風』を創業。アイメック農法を用いたトマトの栽培をスタートし、同時に販売先を探し始めた。
二〇一五年、壱岐と福岡のスーパーでトマトの販売を開始すると、それは飛ぶように売れた。「ママなかせ」というキャッチーなネーミングも相まって、下條さんのトマトはまたたく間に壱岐の名産品のひとつとなる。

それと同時期に、農地のすぐ隣、湯ノ本湾を見下ろせる高台に『レストランしおかぜ』をオープン。ここでも、ママなかせをふんだんに使用した料理を出すようにした。

「実は最初、レストランは形だけというか、そんなに真剣に取り組んでいなかったんですよ。レストランとして利用しているこの建物は私がかつて通っていた中学校の校舎を改装したものなのですが、せっかくなら自分の故郷の思い出の地を活かしたい、というくらいの気持ちだったので。

でも今年、ここでシェフをしたいという人がやってきて、『せっかく美味しい野菜を使っているのだから、美味しくないものは出したくありません。私にやらせてください』と。彼が本気なら私も真剣にやらなければと一念発起して、新しいシェフのもとで料理を出すようになったのがここ最近です」

現在のレストランの人気メニューは、ママなかせを使用した「甘壱岐トマトジュース」や「ママなかせピザ」。ジュースはのどごしが爽やかで、トマトの酸味が苦手な人でも、りんごジュースのようにごくごくと飲めてしまう。ピザも、ピリッと辛いソースにママなかせの甘さがアクセントになっていて絶品だ。

 
 
 
では今後、しおかぜファームはなにを目指しているのか──。そう尋ねると、下條さんは「本当は、ママなかせをもっと甘く、美味しくすることもできるんですよ。でもそれはしません」と事もなげに言った。

「いま以上糖度を上げようとしたら、収穫量がその分落ちるでしょう。これは『どこまで美味しいトマトが作れるか』という趣味ではなく、ビジネスですから。私はいま、食べてくれる方の満足度と収穫量のバランスを見極めつつ、どのくらいがベストかという実験をしているんです」

下條さんは、「実験」という言葉を何度も口にした。しおかぜファームは、壱岐のなかで農業をビジネスとして成り立たせるための実験の一拠点に過ぎない。この実験が成功すれば、壱岐島内で農業生産のインフラを整えるためのひとつのロールモデルができあがる、と言う。

「夏はそこまで暑くなく、冬も〇度以下になることが稀な壱岐は、農業の生産拠点としてはとても優れているんです。だからこそ、壱岐の農業がもっと盛り上がり、壱岐で作られた野菜を日本中の人に食べてもらえるようになってほしい。究極的に言えば、うちの会社自体はどうでもいいんです」

 
 

これまで、紆余曲折という簡単な言葉では言い表せないような道を歩いてきた。もしも自分がIT企業の代表からのキャリアチャンジという道を選ばず、最初から農業に携わっていたとしたら、きっとこんな農法は選んでいなかった、と下條さんは笑う。

「手間をかけて土を耕し、トマトを育ててきた人からしたら、こんなのはインチキまがいの農法だ、と思われるかもしれません。でも、そういう反発には慣れているし、私はこれが壱岐のためになると信じていますから」

いままでいろいろありましたから、もうなにが来ても大丈夫です──。下條さんはビニールに根を張ったトマトを撫ぜながら、穏やかにそう言った。

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ため息が出るほど甘いトマト「ママなかせ」ができるまで──しおかぜファーム【後編】

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