トマト農家、と聞いて私たちが最初にイメージするのは、太陽の下で汗をかきながら、よく熟れたトマトを慈しむ人の姿ではないだろうか。
しかし、島じゅうの人々が「甘くて美味しい」と絶賛するトマト『ママなかせ』の生産・販売をおこなう『壱岐の潮風』代表の下條朝則さんは、もしかすると、そんな従来のトマト農家のイメージからは大きく外れる人かもしれない。

 
「私は、農業や飲食業に関してはまったくの畑違いというか、ずぶの素人でしたから」──。目尻を大きく下げ、笑いながらそう語る下條さんが、“隠居”用に買ったという故郷・壱岐の自分が通った中学校跡地を利用し、ビニールハウスを用いるトマトの生産を始めたのは二〇一五年のこと。壱岐島内での販売と、福岡のスーパーでの産直販売をスタートした直後から、下條さんのトマトは飛ぶように売れた。

スーパーのパートの女性が、「このトマトだけは、買って帰ると子どもが『また食べたい』と何度もねだるんですよ。本当にママなかせで……」とぼやいたひと言から『ママなかせ』という名前がつけられたこの高糖度のトマトは、いまでは壱岐を代表する特産品のひとつだ。

 
「農業や飲食業はまったくの畑違い」だった下條さんが、なぜ、トマトの生産・販売という未知の分野に──それも、ぼんやりと想像していたという“隠居”生活の計画を振り出しに戻してまで──足を踏み入れることになったのだろう。

 
 

下條さんは二十歳のときから二十五年間、壱岐の農協でシステム開発・運営の仕事に従事していた。当時はまだめずらしかった、コンピュータを使った業務のトータルシステム化にいち早く取り組んでいたという。

 
「農協では大手コンピュータメーカーの機械を使っていたんですが、そのメーカーから農協の電算部門に、頻繁にシステム開発の仕事の依頼が来ていたんです。それで、依頼を毎年受けているうちに、しだいにその業務だけで数千万の収益が上がるようになってしまって。『会社を興して、これまでの仕事と外販と、どちらもやるようにしたらどうか』と周りに薦められて、会社を立ち上げることにしました」

 
しかし、順風満帆かのように見えた下條さんの会社設立の計画は、思わぬ形で壁にぶつかってしまう。

 
「予定では、その新しい会社に農協の電算部門がすべて移籍することが決まっていたんですが、直前になって『労働者の分断を生む』と労働組合の大反対を受けまして……。結局、もともといた職員たちに新しい会社に移籍してもらうことは叶わず、ゼロから職員を雇いました。

その結果、さらに労働組合の怒りを買ってしまったようで、業務ができなくなるよう、嫌がらせをされたんです。間違ったデータをわざと入れられて、それをこちらのミスということにさせられ、『こんなデタラメな会社に仕事を任せては駄目だ』と吹聴されたこともありました」

 
続出するトラブルに音を上げた下條さんは、四十五歳のとき、完全に独立した状態でソフト会社を興すことを決意。壱岐を本社とし、東京にも営業所をつくって都内に移り住んだ。
ここから彼のビジネスは少しずつ拡大していき、二十年の時を経て、社員六十名の会社へと成長する。

 
「事業を始めてから二十年が経ったのを機に、社長の座を他の人に譲ることを決めて、壱岐に戻ってきたんです。のちにしおかぜファームとなるこの土地を買って、ここでのんびり暮らそうと思っていました。

しかし、久々に内側から眺めてみた壱岐は、私がかつて育った頃と比べ、かなり疲弊しているように見えたんです。経済も、人口も衰退してしまっていて……。しだいに、壱岐のため、私にまだ何かできることがあるのではないか、と考えるようになりました」

 

そんなとき、下條さんはインターネットを通じてある野菜の“農法”に出会う。仕事から身を引き、六十五歳を迎えたときのことだった。

 
 
後編へ続く

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IT企業の社長だった私が、「トマト農家」を始めた理由──しおかぜファーム【前編】

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