石段を一歩一歩、踏みしめるように下りていた太朗が、突如前を見て「あっ」と叫んだ。
「海だ!」
家々の間から覗く海を指さした太朗は、まるでそれを生まれて初めて見たかのように、顔を輝かせ石段を一気に駆け下りる。
「コラ! 海見るか下りるかどっちかにせんと!」
転ぶぞ、と言いかけた瞬間、彼は足を滑らせて派手に転んだ。

 


 
「あーあ、太朗やっと寝たよ」
笑いながら路地に出てきたのは、妻のはるだ。ようやく泣き止んで眠った太朗の子守を、きょう泊まる予定のゲストハウスの人たちに任せてきたという。

「パパ、なにしてるの?」
そう聞かれて、坂道の上から大声で答える。
「位置を探してるんだよ、ベストの!」
「なに? なんの位置?」
ベストスポットだよ、ともう一度叫んだが 、春は聞こえないという顔をして海のほうを見た。
「海、綺麗だね!」
春のその言葉に、もっと綺麗な海をきょう何度も見ただろう、と思う。
もしかすると、島出身でない人にとっては、海というのは何度見ても新鮮なのだろうか。

 
 

祖母が亡くなり、兄夫婦が祖父と両親を福岡の新居に招き入れたのが五年前のことだ。持病を患う祖父に加え、還暦を過ぎて腰を悪くした父から、壱岐の家を引き上げて都会に住みたいという相談があった。
実家がなくなるということに強いショックを受けたのは、僕よりもむしろ兄のほうだ。「親父は東京でも福岡でもいいって言いよるけど、俺は自分ちがなくなるのは寂しいと」と彼は何度も言った。

結局、東京で共働きの夫婦として暮らし、春の出産を控えていた僕たちではなく、福岡に家を建てたばかりの兄夫婦が、祖父たちとともに住むことになった。
壱岐の実家はそれから間もなく取り壊された。僕がこの島を訪れるのは、そのときから五年ぶりだった。

 
 

太朗の手を引きながら海沿いを歩く。漁船の並ぶ勝本の夕景は、幼い頃に毎日見ていたそれと一分たりとも変わらなかった。

「ほら太朗、いまそこにクジラいたぞ」
イカ釣りのための集魚灯を提げた漁船を指さして、「あの後ろ、ほら!」と声を上げる。太朗は怖がって、サッと春の足の後ろに回り込んだ。
「なーにが面白いのかね、自分の息子怖がらせて」
そう言う春は、僕よりもずっと楽しそうな顔をしている。勝本の海は、深い青からすこしずつ、夕焼けを映した橙色に変色していく。

 
 

「パパ」
後ろから呼ばれて振り返ると、春と太朗が細い小道の先を見つめていた。顎あたりの輪郭がよく似てきたな、と並んだふたりを見てふと思う。

「干物干してあるだろ、そのへんの家」
「このあたりだったよね、ご実家」
 
太朗の背中を押しながら小道をどんどん進んでいく春を、「いいと、そんなん」と制する。
「パパは慌てると壱岐の言葉になる、ってママが言ってた!」
太朗の悪戯めいた口調は、笑ってしまうほど春そっくりだった。やれやれ、と思いながらふたりの後ろ姿を追いかける。


 
 

長い散歩を終えて広い通りに戻ると、人手がぐっと増えていた。子ども連れが多いが、中には浴衣を着た若者たちもいる。人混みの中に子どもをふたり連れた昔の同級生を見つけ、春と太朗をぎこちなく紹介したりした。

ベストスポットを探しといたから、と大口を叩き、春と太朗を坂道の上に案内する。途中、クモの巣が顔にかかった春が「もうこのくらいの高さでいいよ」と顔をしかめて言うので、坂の中段ほどで渋々腰を下ろした。

「わ、なんだか急に楽しみになってきた」
「派手なやつ期待したら短くてがっかりするぞ」
「短いとか長いとか関係ないの。ね、太朗!」
太朗に呼びかける春の横顔を照らすように、突如、大きな音を立てて海上に花火が上がった。

 
 

「すごい、近い! 写真に収まりきらない!」
太朗と同じくらいはしゃぎながら、春が叫ぶ。
島を出て都会に住むようになってから、もっと大規模で賑やかな花火大会はいくらでもあるということも知った。しかし、坂道に腰かけて花火を眺めていると、かつて太朗くらいの歳だった頃、両親が兄と自分を連れて花火がよく見える場所を探し歩いてくれたことを鮮明に思い出した。

打ち上げ場が近いから、バンという火薬の破裂音が耳が痛いほどに響くのだった。真昼のように照らされた道の上で、僕たち家族はしばし言葉を忘れたように花火を見上げていた。

 
 

打ち上げが終わり、疲れてふたたびウトウトし始めた太朗を背負いながら、ゲストハウスまでの道を歩いた。島のスーパーで買った安物の下駄が、春が歩くたびにカランコロンと響く。

「さっき、ご実家の跡地、新しい家の工事中だったね」
「うん」
「嫌だった? 見るの」
「うーん」

曖昧な答えを返すと、春はこちらを振り向いて笑う。
「あそこがまた、どこかの家族の新しい実家になるんだね」

 

ゲストハウスに着く頃には、太朗はすっかり眠っていた。
「あした、福岡のおうちになに買っていこうかね」
春が隣の部屋から顔を覗かせて言う。
「焼酎がいいだろ、どうせ飲んべえしかいないんだから」

僕はどこか清々しい気分で、あす、久々に会う家族たちのことを考えていた。

 
 

【壱岐のあれこれ #18】

壱岐島では毎年八月、複数の場所で花火大会が開催されます。中でももっとも大規模なのは、壱岐の北端・勝本港で開催される“壱岐の島夜空の祭典”。およそ二二〇〇発の花火が幻想的に海上を彩る様子を見るために、勝本港には毎年、多くの地元の人や観光客が集まります。

二〇一八年の開催日程は、八月一三日 夜八時~。海に映る打ち上げ花火の美しさは、一生記憶に残る夏の思い出になること請け合いです。

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打ち上げ花火の夜

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