郷ノ浦の山道を車で上ってゆくと、長く続くカーブの先に、木々を背景にひっそりと建つ一軒の家が見えてくる。赤い看板に書かれた文字は「パンプラス」。店のドアを開けると、「いらっしゃいませー」と大きな声が飛んでくる。

七十種類にも及ぶパンや焼き菓子を前に、思わず顔がほころんでしまう。店は山の奥にあるにも関わらず、客が次々とやってきては、あれこれと迷いながら焼きたてのパンに手を伸ばす。

さぞかしこだわりの強い、職人気質な店かと思いきや、代表の大久保卓哉さんは「パンとはまるで縁のない人生でした」と穏やかに言う。

福岡出身。幼い頃から野球少年だった卓哉さんは、中学、高校、大学と野球漬けの日々を送った。しかし、将来も当然その道に進むと思っていた矢先、肩を負傷してしまう。大学四年生のときのことだった。

「そのときまで、本当に野球しか見えてなかったんですよね。大学四年の夏が過ぎてから『就活するか』ってエントリーシートを書いてみたところで、面接にすら進めなくて。そもそも、そんな時期だから企業の募集自体ほとんど終わってますし。どうしようかな、と困ってしまって」

そんなとき、大手の製パン会社の軟式野球部に内定が決まっていた高校の同級生と再会した。同級生伝いで野球部の監督から声がかかり、卓哉さんは製パン会社に就職することとなる。

「なんとなく、営業職かと思ってたんですよね。でも配属された部署が直営店部というところで、パンをつくることになって。……僕は正直、まったくパンに馴染みがなかったので、最初は少し戸惑いました」
「“ピロシキ”ってなに? って感じだったもんね、最初」

そう話す妻の由加利さんは、高校の同級生。由加利さんと卓哉さんは休日にはもっぱら福岡のパン屋巡りをして、少しずつパンのことを勉強していった。

 
 

プロへの道は諦めたが、大好きな野球は続けた。野球の練習とパンづくりに没頭していた二年目、エリアマネージャーに呼ばれた卓哉さんは「店長をやってみないか」と聞かれ、とにかく驚いたという。

「僕、最初、他の人と間違えられてるんだと思って。会社の野球部は土日にも練習があったんですが、パン屋って土日が一番忙しいので、野球部に所属している社員は店長になれないだろう、と思ってたんですよ。『僕、野球部ですけど大丈夫ですか』とエリアマネージャーに聞いたら、『そんなの関係ないから、きみらしい働き方で働け』と」
上司のそんな頼もしい言葉に、卓哉さんは店長を引き受けることを決意する。

製パン会社でのキャリアが五年目にさしかかる頃、壱岐で長年ひとり暮らしをしていた卓哉さんの祖父が、体の不調をきっかけに透析治療を受けることになった。そして、集まった家族の前で、自分が祖父と同居すると手を挙げたのが卓哉さんだった。

「いつかは独立してパン屋を開きたい、という野心がありました。それなら、祖父の土地のある壱岐に移住して、壱岐で店を開けばいいんじゃないかと思ったんです」

驚いたのは由加利さんだった。「いつかはふたりでお店とかやれたらいいね、って話してはいたんですが、私はずっと福岡育ちで、他の土地に住んだことがなくて。壱岐にも一度しか行ったことがなかったので、正直、移住するって聞いても全然ピンとこなかったですよね」。

ほとんど卓哉さんの独断で、壱岐への移住と、パン屋の開店が決まった。二年前のことだった。
そして、平成二十八年四月、移住した祖父の家のすぐ近くで、「パンプラス」が開店する。オープン当日に夫婦が目にしたのは、予想外の光景だった。

 
(後編へ続く)

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「パンに縁がなかった」野球少年が、島でパン屋を開くまで【前編】

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